今日は、バレンタイン
今年は、チョコレートを用意しよう。
シンは、そう心に決めた。
ほんとはアスランさんからもらいたいんだけど、この人が、そんなこと思いつかないのわかってるから。
自分用には、甘いやつを買おう。
いっそ、砂糖でザラザラするくらいの甘いチョコ。
アスランさんには、ビターチョコ。
カカオ９０パーセントとか、そういうとっても苦いやつ。
そうしたら。
俺の甘いの、半分あげるから。
それから。
レノアさんって人には、ちょっと奮発した高いチョコ。
よくわかんないけど、ブランドもののさ。
美味しいやつ、用意しよう。
そうして、思い知らせてやるんだ。
今日は、バレンタインデーなんだって。
「１４日はどうするんですか？」
シンは、それをさりげなくきいたつもりだった。
夕飯を食べながら相手の予定を聞く。
一緒に暮らしだしてから、何十回、何百回と繰り返してきた会話をなぞるのと同じ。
同じ、はず。
「式典に顔を出すわけにはいかないから。海にでも・・・献花に行こうと思ってる」
応えたアスランの声は、ほんとうにいつもどおりだった。
精一杯、さりげなさを装ったシンよりも、ずっと、ずっといつもどおりの、声。
「プラントには行かないの？」
「行ってどうするんだよ。あの墓には、何も入っていないのに」
そう続けられた声も、ひどく静かなものだった。
「それだったら、海に行った方がいい。母がいたと思われる第六区は、丁度太平洋からインド洋付近に落下したらしいと聞いている」
『母』と、そう言ったアスランに違和感を感じて、シンはちらりとアスランを盗み見て。
その目の色に、慌てて、目を伏せた。
いつもどおりじゃない。
平気なわけ、ないじゃないか。
シンは、今だにポケットに忍ばせてある、子供用の携帯を意識して、しかしそれを取り出すことを我慢した。
「じゃあ、俺も一緒に行っていい？」
「お前仕事だろう」
咎める声は、ほんとうにいつもどおり。
なんだかとっても腹が立つ。
「ユニウスセブンに縁故者がいれば、２月１４日は休めるんですよ」
それは、コーディネイターの多いオーブだからこそ通じる話だった。
「お前、誰かいたのか？」
初めて知った、と、真面目なアスランは目を見張る。
馬鹿だこの人。
シンは、ひとつため息をついてから、唐突に語気を荒げてみせた。
「恋人の！お母さんが！いたでしょうが！！」
「・・・・・」
アスランは、何か、苦いものでも飲み下したような顔になった。
何でも顔に出るなこの人。
「そんなことが、許されるわけないだろう」
「許されますよ。じゃ、正式に休み取ってこなくちゃ。プラント行きなら、前後でもう少し休めると思ったのになぁ」
「シン」
たしなめるような、アスランの声。
シンは、それを聞かずに。
聞かずに、ごちそうさま、と呟いて、自分の皿をキッチンに持っていく。
テーブルの向こうで、アスランが呟いた言葉は。
無視したわけでもなく、本当に聞こえなかった。
その日は、見事な快晴だった。
ただ、風が強かった。
珍しく高い空に、風がびゅうびゅう鳴って。
アスランの投げた花は、海面に落ちる前に視界から消えた。
「・・・・これ」
シンは、買ってきたチョコレートをポケットから出す。
包みごと放るのはなんだか悪い気がして、中身を開けて、遠くへ投げる。
花よりも重みのあるそれは、たぶん、風に負けずに波間に消えた。
「ありがとう、シン」
青い髪が、風に舞い上がる。
アスランは、うっすらと笑っていた。
「これ、母さんの好きだった銘柄だ。子供の頃は、分けてもらうのが楽しみだった」
シンの手の中に残った、赤い包装紙を覗き込んだアスランに、シンはそれをかさかさと振って見せ、風に飛ばされそうになって、慌てて掴み直して。
「もうないですよ。あんたには、これ」
アスランにはちゃんと苦いチョコを買った。
チョコっていうより、ほとんどカカオみたいなやつだけど。
「苦くないか？これ」
「苦いですよ」
「そうか」
しかしアスランは、『ありがとう』と言って、それを受け取った。
俺のやつは、甘いんだ。
いっちばん安い、甘いチョコ。
シンは、そう思った。
そう、言おうとした。
その前に。
「これは、苦くないんだ。美味い」
アスランが、上着のポケットから、小さな箱を取り出した。
赤一色の包装紙。シンの手の中にあるものと、同じ。
「俺に？」
思わず聞くと、ちいさな笑みが返ってきた。
「分けてもらえたら・・・嬉しい」
小さな箱。
店で、随分悩んだシンは知ってる。
これ、結構高かったやつだ。
でも、２個しか入ってない。
「じゃあ、半分こで」
「これもな」
アスランが示したのは、シンが贈った、苦いにがいチョコ。
「苦いですよ」
「このやろう・・・」
高い高い空の下。
やたらと強い風の中で。
アスランは、シンの頭をそのチョコで叩いて。
そうして。
ひどく、晴れやかに、笑った。
「・・・・っ！なんで泣くんだお前！！」
「ほ・・・っ、放っといてくださいよ！」
ぐしぐしと、一生懸命涙を拭って。
それからシンは、アスランにもらった箱を開けた。
ひとつ、口に放り込むと、涙が出るほど美味しかった。
それを、ぐい、と残りをアスランに押し付ける。
アスランは、『いいのか？』と、首を傾げて。
ぶんぶんと首を縦に振るシンの前で、同じように、それを口にして。
「・・・やっぱり、美味い、な」
そう呟いて、幾度か続けて瞬きをした。
緑の瞳は、潤んで揺れていたけれど。
それは、風のせいかも知れなかった。
だって、それでもやっぱり、アスランは笑っていたのだから。
記憶が薄れたわけじゃない。
価値が変わったわけじゃない。
でも。
「あんたにチョコもらえるとは思わなかった」
「お前、去年散々騒いだだろうが」
でも、この日に。
また、笑うことができる。
できるように、なったから。
なったから、だから。
「だって、今日はバレンタインなんですよ！あんたからチョコレート欲しいに決まってるじゃないですか！」
ごくごく普通の恋人同士みたいに。
「そういうものか？」
「そういうもんなんです」
「そうか」
そう言ったアスランは笑っていて。
だから、シンも笑った。
交わしたキスは。
アスランの母の好きだった、甘い、チョコの味だった。