今にも、泣き出しそうな空の下、ふと、歩みを止めた永泉に気付き､泰明は振り返る。

「どうした」

「あ・・・あの、すみません・・・・」

慌てた様子で追いついてきた永泉の後ろ､今しがた立ち止まっていた場所には、今が盛りの紫陽花の花。

「紫陽花か」

花が咲く､鳥が飛ぶ､草が芽吹く、虫が鳴く。

永泉が足を止めるには、必ず何かしらの理由があると､泰明は知っている。

雨の色に染まったその花から、泰明のもとに戻ってきた永泉は、少し息を弾ませてもう一度謝った。

「申し訳ありません」

白い面を隠した髪に､ほたりと雨の粒が落ちる。

「降ってきたな。行くぞ」

「はい」

もう一度花を振り返った永泉の、髪の先に静かに光る雫を眺め､泰明は先を立って歩く。

その後ろを､永泉が一生懸命についていった。

さらさらと、絃を撒くような雨が降っていた。

雨は嫌いではないけれど、雨が降ると､泰明に会えない。

泰明に会えないと､気持ちが雨の雫のように、地に吸い込まれて沈んでしまう。

７月６日。もう、１９年も生きてしまったのかと､何か申し訳ないような気持ちで泣きたくなってきたとき､唐突に庭先から声がした。

「泣いているのか」

特徴的に結われた髪から、天の水を滴らせ、すらりと立つ恋人に､永泉は慌てて駆け寄った。

「泰明殿､お風邪を召してしまいます・・・」

「かまわぬ」

そうやって立っていると､泰明はまるで一本の若木のようで。

もしかしたら本当にかまわないのかもしれないと、一瞬思って永泉は首を振った。

「あ、あの、とにかくお上がりください。拭く物を持って来させますので・・・」

「いらぬ。これを持って来ただけだ」

持ち上げた右の手には､本物の若木。

「今日は､お前の生まれた日だろう。祝いにこれをやる」

薄紅色の花をつけた、ちいさな紫陽花。

「紫陽花は好まれぬと聞いていたのだが､お前は違うようだからな」

「あ・・・・」

紫陽花の花に､足を止めたことは覚えている。

それを、覚えていてくれたこと。

自分の生まれた日を､祝ってくれること。

「あ・・・あの・・・・その・・・・」

こらえていた涙が､違う意味をもってこぼれ落ちる。

泰明の腕が伸び､永泉の涙をすくい取ったが､それは雨の滴に紛れて落ちた。

「あ・・・上がって､ください」

嗚咽をひとつ、かみ殺して。

「お礼を・・・ひくっ・・・」

かみ殺しかけ、失敗して。

「誰か・・・泰明殿に拭く物を、それから、このお花を・・・・」

上げた声が震えていたせいか､どうしても涙が止まらなかったせいか。

泰明は黙って階を登り､永泉はなんとか、泰明に円座に落ち着く頃には嗚咽を止めた。

「あの紫陽花は､北山で見つけた。咲いてすぐは白いのだが､やがて紅色に染まる。お前のように美しいと、そう思っていた」

そう言った泰明は､永泉の頬に触れた。

もう涙の跡のない白い頬が、ぱっと紅く染まる。

やはり似ている、と、泰明は深く頷いた。

「あ・・・あの、ありがとう、ございます・・・・・」

薄紅の紫陽花は、雨が上がり次第、永泉の部屋の側に植えられることとなった。

今はまだ、階の側で雨に濡れている。

「いや」

そうっと、頬に添えた手のひらを、頸へ､喉へと滑らせる。

触れられる前からそこはほんのりと紅く、触れればいっそう紅くなる。

泰明は知っている。

この幾重もの僧衣の下、その白い肌が､紫陽花のように紅く染まることを。

袈裟の紐を指先だけで外し､重い帯を床に落とす。あらわれた肌はほの紅く､それを更に紅くすることに､泰明は夢中になった。

「あ、・・・あっ・・・・は・・・・・」

触れた肌の柔らかさは､彼の花を上回るもの。

触れた内の熱さは､雨に濡れた花とは比べようもなく。

「あん・・・や、やすあきどの・・・・・」

何よりも、紫陽花は泰明の名を呼ばない。

「永泉・・・・」

薄紅の花の内､泰明は深く身を沈めながら､その花の芽吹きを思った。

浅く喘ぐ唇を食みながら、それが初めてほころんだ時を思った。

クレナイアジサイ

泰明だけの。

「あ、あぁ・・・・」

溶け入るような熱の中､紅い花が､また、咲いた。