行かないで
舞い降りた、赤い機体。
そのコックピットから、伸ばされた手。
「シン」
呼ばれた名前。
すべてが終わって。
月面に取り残されたシンとルナマリアを回収に来たのは、ザフトではなくオーブのＭＳだった。
「狭いだろうが、我慢してくれ」
そう言って、どこか困ったように笑ったその人は、シンたちをエターナルに下ろした後、救援に向かうの向かわないのと通信機と言い合いながら。
不意に。
「っ、アスラン！！」
不意に、倒れた。
格納庫の灰色の床に、藍色の髪が散って。
その、あまりに現実味のない光景に、シンは一瞬立ちすくみ。
それから、ルナマリアと二人で、慌ててその辺に整備員を捕まえて、その人を医務室に運んだのだった。
ベッドに横たわるその人を前に、シンは唇を噛んでいた。
シンが、撃ち落した。
その傷の癒えぬまま、この人は何度も何度もＭＳに乗って、戦っていたのだという。
スピーカー越しに名をよんでくれた声を、シンはまだ、覚えている。
あの必死の声を、覚えて、いる。
忘れたりなんか、できない。
「・・・シン？」
後ろから抑えた声がして、カーテンのすき間から、ルナマリアが顔を出した。
「ヴォルテールが迎えに来るって」
はじめ、何の話かわからなくて。
何度か瞬きをしてから、やっとそれが「自軍」の戦艦の名前だということに、気が付いた。
「あたし戻るわ。メイリンのこと心配だけど、あの子のためにも、あたしがいったん戻らないと」
そうして。
「あんたはどうする？」
聞かれて、戸惑った。
シンの側には、傷ついたアスランが眠っている。
シンが傷付けた。
シンの名を呼び続けてくれた人が、眠っている。
「まだ少し時間があるから。決めたらブリッジに言うのよ」
そう言って、ルナマリアは消えた。
『あんたはどうする？』
「俺、は・・・」
自分は、一体、どうしたいんだろう・・・
ルナマリアの消えたカーテンを見上げ、シンは、ただひたすら困り果てる。
だって。
俺は。
そう思ったところで。
「・・・・行くのか？」
聞こえた声に。
耳慣れたはずの、しかし懐かしさすら感じる声に、慌てて振り返った。
眠っていたとばかり思っていたアスランは・・・やはり、眠っていたのだろうか。
とろんとした目をして、シンを見上げていた。
「え、あ、はい」
弾みで答え、シンはまた、酷く慌てた。
行くって。
行くってことは、ここで、この人と別れるということ。
ルナは行くって。
ザフトに、プラントに戻るって。
「・・・・」
アスランの腕が、掛けられていた毛布から現れ、軽く目を擦った。
「あ、お・・・起きますか？」
どうしていいかわからないシンは、おたおたとしながらその手を取って、アスランの背中に腕をまわした。
痩せた背中。
それでも、支えた手の平には、じんわりとぬくもりの伝わる。
アスランの、体。
熱があるのだろう。
ひどく、熱い。
この体を、腕いっぱいに抱いた夜があった。
自分のものだと、思った瞬間さえあった。
誰より強くて、優しくてでも厳しくて。
なのに情けなくて、わけわかんなくて。
でも、大好きな、大切な恋人だった、アスラン。
その記憶は、呼ばれ続けた名と共に、シンの中の、一番大切なところに仕舞い込まれている。
アスランは、シンの左腕に縋るようにして、ゆっくり、ゆっくりと身を起こした。
自分の手を、掴んでくれる。その指の力が思いのほか嬉しくて。
シンは、掴んだままの手を離さずに、しばらくそうして彼のぬくもりを感じていた。
アスランも、シンの手を離さず。
じっと、じっと顔を伏せて。
そうして、ほつりと呟いた。
「そうか、行くのか・・・・」
きゅ、と、シンの手を握る指に、更なる力が籠もった
細いけれど、強い指だ。
痛いほどのその力に、シンははっとして伏せられた顔を覗き込んだ。
片手で支えた細い背中は、小刻みに震えている。
「アスランさん、どこか・・・・」
痛むのか、と聞こうとして、どこもかしこも痛いはずだと気付く。
術衣から伸びた腕にも、緩められた襟から見える胸にも。
いたるところに、白い包帯。
シンが、傷付けたアスラン。
伝わる熱も、少し、熱すぎる。
「待ってて・・・ください、今、医者・・・・」
とにかく見てもらわないと、と思ったシンは、しかしきつく掴まれた手に、それを阻まれた。
きつくきつく、シンの手を握るアスラン。
そうして。
覗き込んだ翠の瞳。そこから、透明な雫がこぼれ落ちる。
荒い息が喉を通って。
それから、小さな声が、聞こえた。
「い、くな」
「アスランさん？」
「行くなよ・・・」
掴まれた腕に、包帯の巻かれた額が押し付けられる。
始めて見た、この人の涙。
それが、シンの着ていた赤い軍服に、染みる。
「行くな、シ、ン・・・・」
この人のこんな声を、シンは知らない。
だっていつも、強くて、偉そうで。
いつも上の方から、シンの名を呼んで。
「行かないで、くれ・・・・」
そんなアスランが、今、シンに縋って。
こんな風に、縋って。
「頼む、シン。お前だけは・・・・」
縋って、シンが欲しいと、泣いてくれているの？
シンは思わず、その背中を抱きしめた。
力いっぱい抱きしめてから、傷が痛むだろうと、慌てて力を緩めた。
でも、アスランの指の力は緩まなくて。
シンの手を、掴んだままで。
ただ、それだけがよすがだとでもい言うように、シンの腕に縋って泣いていた。
何かを言おうと、口を開く。
でも、何故か声は出なくて。
シンは困惑して、ただ意味のない息を吐いた。
『行かない』と、一言そう言えば良い。
そうすれば、この人はきっと、泣きやんでくれる。
泣きやんで、そうして。
きっと、嬉しそうに笑ってくれる。
シンの気持ちを受け入れてくれた時のような、はにかんだ笑みだ。
見ているこっちまで、くすぐったくなるような。
そんな、幸福な笑みだ。
なのに、シンの唇は動かない。
だって。
だってこの人、きっと今、熱のせいで錯乱してる。
だってこの人、こんな風に泣いたりする人じゃない。
だって、この人は。
シンよりも、オーブを選んだ人、なんだから。
シンは、急に怖くなって、掴まれていた腕を、強く引いた。
アスランの指が、一瞬きつく食い込んで。
それから、ふうっと、離れていった。
シンは慌てて、アスランを横たえて。
痩せた、しかしあたたかな背中を、離して。
「医者、呼んできます。じっとしててください」
そう言い残すと、ばさりとカーテンを跳ね除けるようにして、病室の外へと駆け出した。
これ以上、アスランの姿を見ていることが、怖くて怖くて、たまらなかった。
「俺も戻るよ、ルナ」
「そう」
ヴォルテールは思いの外、早く迎えに来た。そのことに、シンは少しだけほっとする。
もう一度、アスランに会ってしまえば、自分はどうするかわからない。
もう一度、あの人を得ることが出来るかも知れないと。
愚かな夢を、見てしまう。
エターナル内は酷く慌しくて、メイリンだけが見送りに来てくれた。
着艦した連絡用シャトルには、ジュール隊長が乗っていて驚いた。
「アイツもいらん手間ばかりかけさせないで、最初からこっちに下ろせばいいものを」
「あの、そう言わないで下さい。アスランさん、大怪我してて。きっと動けなかったんだと思うんです」
果敢にもそう言い返したメイリンと、隣でそうそう、と頷いていたルナマリアは、自分の後方に目を留めたイザークの視線を追って、釣られるように振り返った。
「隊・・・アスラン！動いて大丈夫なんですか？」
ルナマリアが、声を上げる。
シンは、振り返ることが出来なかった。
「ああ、イザークが来てるなら、顔を出さないと後でうるさいからな」
「どこでそんな怪我をした。怪我人なら大人しく寝てろ！」
「そうもいかないさ。・・・ルナマリア、すまなかったな」
「いいえ。こっちこそ。メイリンのこと、もう少しお願いしますね」
「ああ」
シンの、すぐ後ろ。
あの、声が。
「シン」
自分の名を、呼んで。
シンは、恐る恐る振り返る。
藍色の髪。
翠の瞳。
シンの大好きなアスランは、ただ、そこで笑っていた。
シンの見たかった、あの、幸福な笑みではなくて。
何もかもを諦めたような。
これから、死に行く人のような。
そんなふうに、笑っていた。
「幸せに、なれよ」
「・・・・っ！」
シンの背筋を、何か、冷たいものが駆け抜ける。
そうしてそれが、喉の奥でカッと熱くなった。
「あ・・・」
たまらず、声がもれた。
喉が熱くて、息ができない。
でも。
でも。
その熱を、振り払って。
シンの。
自分の、言葉を。
「俺、行きません！！」
翠の瞳が大きくなった。
驚いた顔、間抜けだ。
そう、こんな間抜けなひと。
ひとりになんか、できない。
「すいません、ジュール隊長、俺・・・」
アスランの手を取って、シンはその隣に並んだ。
アスランは、白い軍服を羽織ってはいたけれど、それでもその隣は、ほのかにあたたかかった。
アスランは、慌てたようにシンを覗き込む。
「シン、しかし・・・」
そう言って、困ったように瞬いて、そうしてわずかに声をひそめた。
「あの時のことなら、気にしないでくれ。・・・熱の上のたわごとだ」
それには答えず、シンはぎゅっとその人の手を握った。
「・・・手、震えてますね」
そう言って。
自分を見下ろす翠の瞳を、じっとじっと、見上げる。
「そうですよね。アンタ、熱出して錯乱くらいしなきゃ、本音なんか言いませんよね」
そう、言い切ると。
アスランが、ぐっと詰まった。
「アンタ嘘つきだけど、あの時だけ、本音言ってくれました。だから俺、残ります」
あんな時でないと、本音の言えないかなしいひと。
でも、聞いてしまったから。
聞くことが、できたから。
「・・・男が土壇場で意見を翻すな、馬鹿者」
イザークが、呆れたようにため息をつく。
「あんた、それでいいのね？」
ルナマリアは、何故だか少し、嬉しそうだった。
そうして、アスランは。
翠の瞳に、わずかに涙を浮かべて。
小さく小さく、呟いた。
「ありがとう・・・」
出て行くシャトルを見送って、シンとアスランは、手を繋いで歩き出す。
アスランの指が、きゅっとシンの手の平に食い込んで。
伝わる熱が、どうしようもなく、幸せだった。