ふいに、沈丁花の香りが強くなったような気がした。

外を見やれば、午後の光の中に黒い雲が集う様が見て取れる。

ひと雨来るか・・・そう思う間もなく、さあっと、糸のような雨が降り出した。夏の夕立とは違う、あくまでもやさしい、春の俄雨。

泰明は、手元の書のことも忘れて、それに見入っていた。

　「やすあきどの、沈丁花がこんなに薫って・・・」

　　　　そのひとは、雨に降られたというのに嬉しそうにそう言った。

　　そして自分も、そのひとがこんなにも身を寄せてくれるのだから、少々濡れることなどどうでも良かった。

　　　ふたり、ひとつのかざみを被って、新緑の下、俄雨をやり過ごした。

　　　愛しい、優しい記憶・・・

「泰明」

呼ぶ声に、我に帰る。見上げれば兄弟子が立っていた。

「この度の、泰山府君祭のことなのだが・・・」

「わかっている。行かない。お師匠にもそう言ってある。」

感情を消した泰明の声に、兄弟子は慌てたように言った。

「そ、そうか。それならば良いのだ。」

そして、逃げるように去っていった。

　　　　「泰明殿が、人であろうと何であろうと、そんなことはどうでも良いのです。わたくしは、やすあきどのが・・・」

瞼を閉じれば、なつかしい声が聞こえる。

いつでも真摯に向けられた、藍色の瞳が思い起こされる。

愛を、夢を。様々なものをくれたひと。

この面影さえあれば、ひとり、歩いていける。

ずっと、ずっと。

いつか、おまえが還る、そのときまで。

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