月の、大きな夜だった。

 

 

「永泉」

訪れた泰明の髪にも、おぼろな光。

「来い」

「はい」

さし伸べられた泰明の手を、永泉はためらいもなく取った。

 

春の夜。

恋人との道行きは楽しくて、どこか不安。

 

何処からともなく、妖しい花の香。

踏む道さえも、ぬかるむようで。

日の下では見えない旺気が、そこここに満ちている。

 

騒ぐ空気に、つないだ手と手が引き離されそうで。

永泉は、泰明の硬い手のひらを、一生懸命に握って歩く。

 

 

不意に、泰明が振り向いた。

「問題ない」

ただ、一言。

言って、ふたたび歩き出す。

 

それだけで、纏わりつくようだったざわめきが、すうっと引いた。

「・・・・ありがとうございます」

答えはないけれど、つないだ手のひらが、ほんの少しあたたかくなった。

 

 

 

やがて。

「ここだ」

導かれたのは、桜の古木。

月の下、ふわりと光を放つような、盛りの桜がふたりを迎える。

「見事・・・・・ですね」

立ち尽くす永泉の手を、泰明はなおも引く。

「来い」

「・・・はい」

 

花弁を透けてとどく月光、その不思議な明かりの下で。

黒々とした幹に、背を押し付けられる。

「泰明殿？」

見上げた泰明の表情は、逆光になってよく見えない。

 

先ほど去ったはずの不安が、足元から這い上がってきた。

「やすあき、どの・・・」

「黙っていろ」

厳しい声に、つぐんだ口を、泰明のそれにふさがれる。

 

そして、背にした桜の幹ごと。

抱きしめ、られた。

 

 

背中から感じる命の鼓動。

柔らかな土の上に立っているという実感。

触れ合った泰明の、ぬくもり。

 

春先の薄氷のように。

永泉の不安が、溶けていく。

 

 

やがて、ゆっくりと泰明が離れると、ふわりと心地よい春の匂いがした。

桜を通した月光に、柔らかく光る泰明の髪が、綺麗だ。

 

「気は、整ったか」

「・・・はい」

 

玄武が象徴するものは北、そして冬。

天の玄武を宿命づけられた自分の体が、移り来た春の気に当てられてしまっていたことに、永泉は今初めて気がついた。

 

 

そして、永泉の気を整えた泰明は、再びその手を引いて歩き出す。

「用は済んだ。帰るぞ」

「はい。・・・あの、泰明殿」

「何だ」

ふり向きもしない泰明のとなりに、永泉は足を速めて並んだ。

「ありがとう、ございます・・・」

「・・・・ああ」

今度は、泰明も答えて。

 

並んだまま、手をつないだまま。

春の夜を、歩く。

 

柔らかな月光が、静かにふたりを包んでいた。