春の夜
月が、出ていた。
波は高いが、風は甘い。
そういえば、北半球は春なのだと思い、シンは、まだ少し冷たい風を吸い込んだ。
生まれ育った国とは、まるきり逆の季節。
それでも、春は、春。
そう思えば、心が浮き立つ。
足が、軽くなる。
この感覚を、おそらくヴィーノやヨウランは理解できないだろう。
プラントに春はあっても、それにこがれる冬はない。
太陽光を反射してくる天体は見えても、おぼろに霞む月はない。
風の匂いに浮かされて、甲板から、立ち入り禁止の主翼の上へと飛び降りる。
たん、たん、と、足に伝わる振動が、愉快だ。
このまま、海へと突き出したその先端へと駆けて行こうと顔を上げ、そこにシンは、うつくしい人の姿を見つけ、足を止めた。
風になびく、赤い服。
夜色の髪が、夜そのものの風に梳かれて。
アスラン・ザラが、月を見上げてそこにいた。
駆けて行く気持ちが、渦を巻いて立ち止まる。
踊る胸が、そのまま、きゅう、と痛くなった。
月を、見上げて。
手足まで、風に任せて立つ人は、今にも月の光にさらわれてしまいそうで。
次の瞬間、衝動のままにシンは駆け出し、足音に振り向いたその人の腕を、捕らえるように掴まえた。
「立ち入り禁止だぞ、シン」
いつもよりも、甘く、やさしい声。
それが、いつも厳しいこの人でないようで、シンは何故か必死になった。
「たっ、隊長こそっ、立ち入り禁止でありますよっ！」
「そうだな」
そう言って、笑う。
その笑顔が、また、おぼろな光に溶けてしまいそうに儚げなものだから。
シンは、いっそうきつくアスランの腕を掴み締めた。
しかし彼は、まるでシンなどいないかのように、無言のまま月を見上げ。
少年は何故か、昔読んだ古い絵本を思い出した。
罪のため、地上に落とされた月の佳人。
やがて、月へと帰ったというその人のように。
この人も、あの月へと帰りたいのだと。
そう、切なく確信した。
「アスランさん」
胸には、まだ、春の鼓動が残っている。
手足は、まだ、甘い風に満ちている。
シンは、それに突き動かされるままに、その人を引き寄せてキスをした。
月なんかに、この人はやらない。
だって、この人は俺がもらうんだから。
おぼろな月が、見下ろしている。
風はまだ、少し冷たい。
けれども甘い、
春の夜。