冬の水仙
その湖にたどり着くには、途中で車を降りて歩かなければならなかった。
車を降りると、薄く積もった雪にさくりと足が沈んで。
ああ、あの日もこんな雪だったと、シンは白い息を吐き出した。
「シン？」
ドアを閉めたところで立ち尽くしたシンを見やり、アスランがそう声をかける。
「俺は、遠慮した方がいいか？」
「いえ、来て下さい」
おねがいします、と、そう続けられるようになった彼は、大人になったのだと思う。
アスランはそうかと呟いて、そうして、シンの隣に立った。
「行きましょう」
献花のために買ってきたスイセンの花束を抱え直し、シンは、アスランの分厚い手袋に包まれた手を取る。
アスランは、それを握り返して。
その手は厚い手袋で包まれているのだから、体温などまるで伝わらないのに。
アスランの隣は、温度が違う、とシンは思った。
あたたかい。
シンは、重いような軽いような。
不思議な足取りで、歩き出した。
ステラの墓参りに行きたい、とシンが言い出したのは、まだ、秋も初めのころだった。
俺も行っていいか？ うん、いいよ。
そんなやり取りの後に、しかし、忙しい彼らがその地を踏むことができたのは、もう、冬のさなかになっていた。
ステラを、この湖の葬ったのと、同じ冬。
同じ曇天、同じ雪。
同じ、静かな、水面。
たどり着いた湖は、あの時と、何も変わってはいなかった。
ただ。
あの少女と、巨大な兵器だけが、いない。
こんな僻地の湖でも来る者があるのか、岸には小さな桟橋があり、その側にはボートが引き上げられていて。
シンはそれに乗りたがったけれど、危険だからやめろとアスランに止められて、諦めた。
「随分古そうだ。沈んだら、いくらコーディネイターでも命が無いぞ」
この水温だ、と、手袋を取ったアスランが、足元を確かめながら２、３歩ばかり桟橋に乗り、薄く雪の浮いた湖水を、そっと指の先で掻き混ぜる。
彼の指の温度に触れて、周囲の雪が、少し、溶けて沈んだ。
今まで、水温などまるで頭になかったシンは、ふるり身を震わせる。
この、冷たい湖の、底の底に。
ステラはいるのだ。
水滴を払った指を、無造作にコートの腰で拭い、手袋をしなおしたアスランの側に、シンは立つ。
アスランの隣は、あたたかい。
それたぶん、シンがアスランを想っているからで。
アスランも、シンを想っていてくれるからだ。
ここは、寒いけれど。
でも、こんなにあたたかい。
あたたかい、のに。
ステラは。
「俺・・・もう少し、あったかいところに連れて行ってやれば良かった」
そんなことは不可能だったと、シンだってわかっている。
あの時は作戦中で、ここまで勝手に来てしまっただけでも、きっと懲罰ものだったのだろう。
あの時は、世界中が戦争をしていて。
シンの知る、あたたかな国へ連れて行ってやることなど、できなかっただろう。
でも。
「なんで俺、こんな寒いとこ・・・・」
湖面が歪む。
涙に滲む。
こぼれ落ちた熱い涙は、しかし冷たい空気に触れて、すぐに少年の頬を凍えさせた。
「でもな、シン」
そんな、シンの手に。
花を抱えたままの手に、アスランは自分の手を重ねた。
この湖の水に触れた手だ。
ステラの眠る、この水に。
そうして、シンの手と共に、スイセンの花束を抱いて。
ステラの髪と同じ色だと選んだ、きいろい、スイセンの花束を抱いて。
「春になったら、この辺は、この黄色い花でいっぱいになるんだそうだ」
そう言って、寒々とした湖を眺めやった。
今は寒い、薄暗くさえある景色を眺めやった。
シンの手の中で。アスランの手の中で。
そこだけ、日の射したような、きいろい花が揺れる。
シンはそれをアスランに預け、両の手の手袋を取った。
そして、あの日ステラにそうしたように。
跪いて、そっと、花束を沈めた。
それは、水面の雪に抱かれてしばらくそこに漂っていたけれど。
やがて、ステラのいる水底へ、沈んでいった。
ステラの髪の、きいろい色は、あの日のように。
暗い水に沈み、涙に歪み。
見えなくなって、シンは泣いた。
あの日のように。
泣いた。
「暖かくなったら、また来よう」
シンが泣きやむのを待って、アスランはそっと彼の背を叩く。
本当は抱きしめてあげたいけれど、それは後だと知っている。
ただ、慰めることはできるけれど。
それでは、ここに来た意味がない。
「暖かくなったらって・・・・言ってたら、今度は夏になっちゃうよ」
それは、シンもわかっていることなのだろう。
アスランの手を借りずに立ち上がると、彼は代わりに肩に積もった雪を払ってくれた。
そのアスランの肩越しに見る、この湖の岸、いっぱいの。
ステラの髪の、きいろい花。
日の光と、同じ色。
その景色を、見てみたいとシンは思ったけれど、今だって、秋に来ようと言っていて、こんな季節になってしまったのだから。
「いいな、それも。このあたりの夏は美しいと、宿の人も言ってただろう？」
しかしアスランは、泣き止んだシンに安心したのか、小さく笑ってそう言った。
「え？言ってたっけ」
「相変わらず人の話を聞かないな、お前は」
それはたぶん、ステラのことで、シンの頭がいっぱいだったからだ。
この湖の底の、ステラのことで。
そう。
この、ステラの眠る湖は。
春には、日の光の色の花に飾られて。
夏には、美しい緑。
秋の、涼しい風が湖面を揺らし。
そうして、冬には。
「でも今は・・・湖いっぱいに、雪の花が咲いてるみたいだな」
ひらひらと降る雪は、つめたい湖面で一時、花のように漂ってから、静かに溶けて沈んでいく。
この、つめたく美しい湖の底で、ステラは。
「行こう、シン」
アスランが、シンの手を取る。
アスランの隣は、あたたかい。
それたぶん、シンがアスランを想っているからで。
アスランも、シンを想っていてくれるからだ。
シンは、ステラの眠る湖を振り返る。
あの時と、何も変わらない湖。
ただ、あの巨大な兵器は、ない。
ないんだ、ステラ。
怖いものは、もう、何も。
だから。
だから、安心しておやすみ、ステラ。
「また、来るよ」
シンの言葉は、白く凝って。
雪に溶けて。
ステラの上へと、降りていった。