花月は、ドアの前で後ろを振り返った。

深夜と呼ぶか、早朝と呼ぶか、迷う時間の裏新宿、吹きさらしのビルの通路。

廊下に血痕は残っていない。

それを確認してから、ドアを開け、転がり込む。

そこは、花月が最近住み始めたワンルームマンションだった。

今まで、何とか絃を紡いで抑えていた血が、ぼたぼたとコンクリートの玄関に落ちる。

「うわ・・・」

実際にそんなものを見てしまうと、なんだか一気に貧血になった気がして、花月はそこに座り込んでしまった。

油断したのだ。たぶん。

案内屋の仕事というのは、行く先の情報収集とクライアントの護衛が基本だ。

だから絃が間に合わなければ自分の身をもってクライアントを守るのがプロというもので、その行動に間違いはなかったし、仕事もきちんと終えたのだけれど。

「油断、したんだろうな・・・・」

熱が出てきたのか、呟きは熱を持ってかすれていた。

ドアに背中をつけて立ち上がると、花月は浴室に向かった。途中で、作り付けの棚から救急箱と水のペットボトルを抱え取る。

血の付いた服を脱いで、ぬるめの湯で傷を洗う。オキシドールのボトルを取り出したところで、失血のせいで脱脂綿を切るのがおっくうになって、きゅ、と歯を食いしばると傷の上からとぷとぷとかけた。

傷を洗って、消毒して。

ガーゼを直接、テープで肌に固定して、ベッドにもぐり込んで丸くなる。

何か食べればよかったと思ったけれど、もう起き上がる気力がなくて、気休めに鉄剤だけ、水で流し込んだ。

ここ一年ほどの、花月の傷の癒し方だ。

致命傷でもないかぎり、こんなふうにしていればすぐに動けるようになる。

自分だけの主治医と、いつも一緒だったときには思っても見なかったけれど。

自分だって、「無限城育ち」。

野生の獣の、生命力を持っているのだから。

それでも、体中がずきずきと痛み、熱で頭がぼうっとしてくると、思い出すのは心配そうな幼馴染の顔。

自分が傷を負ったとき、いつも、見ていた・・・・

花月は、枕元に放り出した携帯へと手を伸ばした。

ちかりと明るくなった液晶に、久しく離れ、そして再び近しくなった主治医の番号を呼び出す。

『筧十兵衛』

表示されたフルネームがおかしくて、少し、笑って。

それから花月は・・・思い切り、それを床へと叩き付けた。

かちゃんと軽い音。

肘の傷が開く痛みと、シーツに染む血の赤。

光の消えた携帯。

「あぁ、あ」

ため息をついて、目を閉じる。

忙しい幼馴染を呼びつけるまでもない。

こんなものは、少し眠れば治るのだから・・・

ちりん。

耳元に、かすかな鈴の音。

人の、気配。

花月は、深い眠りの淵から一気に引き戻された。

とっさに玄関に常備されたトラップの端を引き、それが機能していないことを知る。

飛び起きて、痛みに四肢を引きつらせ、それでも絃の伝える波動に神経を集中する。

これは・・・・

危機感はない。むしろ、深い安堵を呼ぶ気配。

かちゃり、と、鍵の回る音が、妙にはっきりと聞こえた。

恐らく、まる一日眠ってしまったのだろう。真っ暗な空間がぱくりと口を開け、外の街明かりが映す、長身の影。

「十兵衛？」

ひと息に、体から力が抜けた。

枕に頬を落っことし、深く息をつく。

無理に動いたせいで、あちこちが本当に痛い。

傷が開いていないだけ、マシだけれど。

「花月、この血は・・・」

「ああ、ごめん。後で拭くから踏まないで入ってくれ」

枕に半分顔を埋め、まだ少し霞む目だけを上げて、花月は幼馴染をうながした。

玄関に血痕も嫌だけど、血の足跡はもっと嫌だ。でも随分寝ていたみたいだし、もう乾いてるのかな。だいたい十兵衛の大きな靴、洗うのも大変じゃないか・・・・・

「診せてみろ」

「・・・・うん」

いつも無意識に庇っているせいで、わりと無事な右手をついて顔を上げる。

見下ろす幼馴染の視線は、相変わらず隠されていたけれど、それでもとても安心できた。

「医療用でも、あまりテープを直接張るな。かぶれるぞ」

「でも、面倒がなくていいよ」

十兵衛に、注意深くガーゼを外される傷の痛みも、テープの形に赤く染まった肌の違和感も、今の花月は感じない。貧血の気持ち悪さも楽にしてもらったし、熱も下げてもらった。だから困るのは、明かりを必要としない十兵衛が電気をつけてくれないので、その顔がよく見えないことくらいだ。

数箇所に打たれた針の意味を問うことを、好奇心のかたまりであるはずの花月は、したことがなかった。

それは、幼いころから叩き込まれた、筧に対する風鳥院の礼儀と、花月自身の十兵衛に対する信頼の証だ。

「怪我をしたのなら連絡をよこせ、花月。今日は、急に会いたくなって来たからいいようなものの、この状態で襲撃でもあったらどうする」

「仕事で携帯を壊してしまったんだ。それに、ここは無限城じゃないからね。そうそう襲撃なんかないよ」

その壊れた携帯は、フリップ部分がぱっきり折れて、ベッドの足元に転がっている。

しかし、特に邪魔でもなく、ただ落ちているだけの小さな残骸など、十兵衛の心眼にも、不要な情報として認知されないのだろう。

「しかし・・・連絡ができないのは困る」

「そうだね。明日にでも、新しいのを買いに行くよ」

花月は、闇の中、ぼんやりと白く見える主治医の手を見下ろした。

この手を失って、自分が生きていけるとは思わなかったけれど、やってみれば、それはそう難しいことでもなかった。

自分は、一人でも生きて行ける。

でも。

「これは・・・跡が残るかも知れんな・・・・」

「平気じゃないかな。ホラ、ベルトライン行ったときのとか、ぜんぜん残ってないよ」

君にやられたのだって。

言いそうになって口をつぐむ。

十兵衛は気づかなかったようで、丁寧に包帯を巻いている。

時折、固い指が肌に触れるのが心地よかった。

やっぱり、十兵衛がいるのがいいな、と思った。

・・・思ったら、即実行。

「じゅうべえ・・・」

包帯を巻き終わった指を取り、赤ん坊がするように、甘く吸う。

常にない甘えた仕草に、少し戸惑った震えが舌先に伝わって、花月はもっと十兵衛が欲しくなった。

「・・・傷が塞がってからにしろ、花月」

「なんでわかるのかな」

悔しくなって、指先に噛み付く。

それを引き抜かれ、軽く髪をかき上げられて。

「お前のことだからな」

そして、これで満足しろとばかりのキス。

ちょっとした意趣返しのつもりで、花月も十兵衛の腕を引き寄せ・・・そして、その爪先が、ベッドの足元に落ちた何かを蹴ったのを、ぴったりと寄り添った体から感じた。

「？」

下を向きかけた十兵衛の襟首を掴み、花月はその唇を、今度は自分から塞いだ。

「んっ・・・」

舌を絡め、さらに深くしようと身を寄せてみたが、十兵衛の強い力で優しく引き剥がされる。

「だから、傷が塞がるまではだめだ。それに下に血が行くと、貧血が酷くなるぞ」

「十兵衛下品」

「何とでも言え」

「うー」

見えなくてもわかる。上目遣いの可愛い花月。

十兵衛は、さっき蹴ったもののことをすっかり忘れた。

「一緒に寝てやる。それで我慢しろ」

「もっとしたくなるからやだ」

「ならば、帰るが」

「やだ・・・」

すっかり駄々っ子になってしまった花月を、十兵衛は困ったような、何故かだか嬉しいような、複雑な気分でやんわりと抱きしめた。

少し熱を持つ、傷ついた体。

本当は、些細な傷もつけたくはないけれど、それは花月自身が許さないから。

「花月、あまり我侭を言うな」

「うん・・・・」

大好きな温もりに包まれて、貧血の花月はまた眠くなった。

したいより、眠い。そう思って、諦めた。

「やっぱり、一緒に寝よう？それで、明日一緒に携帯買いに行こう。今度は、ちゃんと呼ぶよ」

「そうしてくれ」

上着を脱いで、ベッドに入ってきた十兵衛の体は、汗と埃の匂いがした。

「クス・・・十兵衛の匂いだ」

「わかったから、眠れ」

優しい声に、うん、と頷く間もなく、花月は眠りに落ちる。

眠る彼らの足元で、ささやかな嘘の証が、何も云わずに転がっていた。

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