大丈夫。僕は、大丈夫だから・・・
「花月、花月大丈夫か」
十兵衛に肩をつかまれている。
そのことに気づくのに、数瞬を要した。
「うん、大丈夫」
十兵衛に頬に血が付いていることに気づき、手を伸ばそうとしたが、鈴を挟んだままの指が血まみれなのを見て、やめた。
「とりあえず移動しましょう。ここにいたら危ないわ」
そう言った朔羅の布も、血で染まっている。
ふたりとも、大変なはずなんだ。
この地獄のような場所で、年少の僕を庇って戦うのは。
「怪我はないか、花月」
「うん、十兵衛。行こう」
自分が両断した、名も知らない男の体を踏み越えて、走る。
ここでは入ってきたばかりの子供など、ただの餌食だ。
しかし、古流術派を継ぐ者である自分たちは、狩られるばかりの獲物ではない。
「十兵衛、朔羅、休もう」
花月が、十兵衛の袖を引いた。
自分の状態と仲間の状態、それから周囲の状況。
すべてを見極められなければ、生きのびることはできない。
自分はもう少し走れるけれど、先を行く朔羅の足が、限界。
それに、ここは少しは安全だ。
「ああ、姉者」
「そうね・・・」
立ち止まると、足元から崩れそうになる。それをこらえるのにも、もう、慣れた。
少ない食糧を分け合って、おいしいね、と笑って見せる。
十兵衛の表情が緩んで、朔羅が髪を撫でてくれた。
まだ、大丈夫。
「今日は、僕が見張りをするよ」
転がり込んだ空き部屋の隅で、膝を騙しながら立ち上がる。
しかし十兵衛に腕を引かれて、彼の膝の上に転んでしまった。
「貴様は休んでいろ」
「どうして！」
見上げる幼馴染の、厳しい瞳。
「貴様は俺たちの主君だ。貴様に見張りをさせて、俺たちが眠るわけにはいかない」
「そうよ」
朔羅も言う。
「花月は、私たちの中でいちばん小さいんだから、眠らないとだめよ」
花月よりも、ひとつだけ年上の十兵衛。
みっつ年上だけれど、女性の朔羅。
それでも、守られなければならないほど、風鳥院の名は、大切なものだというのだろうか。
「うん、ごめんなさい。寝るよ」
それでも、ここは自分が引かなければならないのだろう｡
体を丸めて、眠る｡
ずっと、朔羅が髪を撫でていてくれた｡
守られるだけの自分では、いたくない。
ならば、戦うしか、ない。
「花月！」
肉を断つ手ごたえが、絃を伝わって指へと響く。
少数対多数。自分たちの技は、それに向いている。
特に、自分の技は。
点の攻撃の飛針。
面の攻撃だが、殺傷力の弱い布。
その中で、遠く、広く届く絃は、たくさん殺すことに、いちばん向いている。
そう、指を引くだけで。
何人もの「敵」が、ただの肉塊になる。
血を吸った絃が、重い。
「花月、大丈夫？」
戦いが終わった後。動いているのは、花月たち三人だけの空間。
いつもの朔羅の言葉に、振り向いた花月は頷いた。
「うん、大丈夫。あ・・・朔羅、怪我してる！」
その細い左肩に、ぱっくりと開いた傷に、花月は思わず声を上げた。
「大丈夫よ」
大丈夫なんかじゃない。
ここでは、少しの弱みが命取りになるのだから。
「十兵衛！朔羅が！！」
「姉者・・・花月！」
駆け寄ってきた十兵衛は、しかし朔羅を一瞥しただけで、何故か、花月前へ立った。
「とりあえず、着替えを探そう、花月」
「そんなことどうでもいいよ、十兵衛、朔羅が・・・」
「私は、大丈夫よ。それより、本当に着替えたほうがいいわ、シャワーを浴びられるところも探しましょうね」
朔羅の傷ついた肩に針を刺し、出血を止めると、十兵衛は一度だけ花月の前髪に触れ、それから手を引いて歩き出した。
「ねえ、十兵衛、朔羅、なんで・・・」
十兵衛が、振り返る。
その瞳の恐ろしさに、花月の足はすくんだ。
怒っていたわけではない、蔑んでいたわけでもない。ただ、恐ろしいほどに哀しい瞳で、自分を見つめる十兵衛。
「花月・・・お前はもう、殺すな」
「なんでっ！」
花月も、哀しくなった。
僕が、僕の技が、いちばんたくさん殺せるのに。
たくさん殺して、ふたりを守る。
それだけが、今の僕の誇りなのに。
何が間違っているっていうの？
「花月、俺はお前を守ると誓った」
静かに、ゆっくりと、十兵衛は言った。
「だから、見ていられない」
言った十兵衛の声は、その内容とは裏腹に、酷く表情のないものだった。
振り返ると、朔羅が肩を庇いながらついて来ていた。
十兵衛と同じ目をして、花月を見ている。
その視線に耐えられず、視線を落とす。
すると、元の色もわからないくらいに、返り血で染まった服が見えた。
前髪から、はたりと雫が落ちる。
頬に張り付いたそれは、水よりも遙かに高い粘性をもっていた。
指に血がついていることは知っていたから、腕を上げてそれを拭う。
しかし、その腕には、誰のものとも知れぬ肉片が付いていて、にちゃりと音を立てて、頬を伝って落ちた。
「・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・・・・」
十兵衛が、朔羅が。
心配するのは当然だった。
足元に落ちた肉片、それを受け止めた誰かの屍骸を見て、花月はやっと気がついた。
全身に、屠った者たちの血の呪いを浴びて。
戦う自分は、たぶん修羅のようだったろう。
父上や母上を殺した連中のように、相手に子や親のいることなど考えず・・・いや、考えることを放棄して。
ただ、敵を屠る自分を、この優しいふたりが心配しないはずがないことに、気づかなかった自分が悪い。
でも。
「でも、殺さないわけには、いかないよ。僕は、宗主なんだから。ふたりを・・・守らなくちゃいけないんだから・・・・」
十兵衛の指が伸びて、花月の頬に触れた。
涙を拭かれて、そこだけ、張り付いた血糊も拭われる。
涙で濡れた、素肌で感じる空気。僕らの生きる場所。
「十兵衛・・・僕、強くなるよ。殺さなくても済むように・・・君たちを、ちゃんと、守れるように・・・・」
こんな風に、心配させたりしないで。哀しい思いを、させたりしないで。
そんな立派な、ふたりの宗主で、いられるように。
「ああ、ならば俺も強くなろう。貴様を守れるように」
そう言った十兵衛、後ろで微笑む朔羅。
それを見て、花月は思う。
大丈夫。
きっと、大丈夫。
自分は強くなれる。
十兵衛だって強くなる。
だから、きっといつか。
僕らの望む未来を手に入れることができるだろう。
・・・・・だいじょうぶ。
髪から、袖から。
赤い雫を滴らせて。
肉片のこびりついた靴で、屍骸の上に立つ幼い宗主。
大丈夫。
その言葉を現実にするための、強さを。
俺に。